2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公に取り上げられ、2024年からは新しい一万円札の肖像画になることも決定している人物、渋沢栄一。

名前は知っていても具体的に何をした人なのか、詳しくは知らないという方も多いのではないでしょうか。果たして一体どのような人物なのか? 今注目を集める理由とは? 多岐にわたる功績の裏にある生い立ちや経営哲学に迫ります!

設立に関わった企業数は約500社! 近代日本経済の父

渋沢栄一は、幕末から昭和初期までの激動の時代を生きた実業家です。91歳で亡くなるまでに、設立に関わった企業数はなんと約500社! さらには約600もの社会公共事業に携わるなど、数々の功績を残したことから「近代日本経済の父」や「日本資本主義の父」と呼ばれています。

日本初の銀行・証券取引所を設立

その呼び名が表すとおり、渋沢栄一の最も大きな功績は、現代の日本の経済制度を確立した点にあります。

1873年(明治6年)、33歳で大蔵省を退職したばかりの渋沢栄一は、日本経済の発展には産業に対する融資が必要との考えから「第一国立銀行」を創設。総監役に就任します。第一国立銀行は、現在のみずほ銀行の前身に当たる日本で最初の銀行です。名前には国立と付いていますが、実際には民間企業であり、諸説あるものの日本で最初の株式会社とも言われています。

さらに1878年(明治11年)には、人々が株式によって円滑に資金調達を行えるよう、日本初の公的取引所「東京株式取引所(現在の東京証券取引所)」を設立。日本に銀行制度と株式会社制度を定着させ、現在まで至る金融システムの土台を築き上げました。

このように日本が産業化するための資金配分の枠組みを作り、民間経済の活性化に大きく貢献したことが、「近代日本経済の父」と呼ばれる由縁となっているのです。

会社設立や公共事業にも尽力

渋沢栄一が手がけた事業は、金融ばかりではありません。自らも起業家として、約500もの会社設立に関与。今なお存在する企業も多く、現在の王子ホールディングスや東京海上日動火災保険、帝国ホテル、東洋紡、日本郵船、東京ガス、東京電力、鉄道各社といった有名企業を筆頭に、さまざまな分野の会社設立に携わりました。

その一方で、教育や医療、福祉といった社会活動にも積極的に取り組んだ点も彼の大きな功績と言えます。日本赤十字社や東京慈恵会、一橋大学、日本女子大学をはじめ、600を超える社会公共事業の設立や運営を支援。中でも貧しい人々や病気や障害を持った人たち、老人や孤児といった社会的弱者を保護するために設立された「養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)」の運営には、1874年から亡くなるまでの50年以上、1916年(大正5年)に76歳で実業界を引退した後も含め、生涯にわたって関わり続けました。

渋沢栄一の生い立ちとは?

このように日本の近代化に尽力した渋沢栄一ですが、その成功の背景にはどのようなルーツがあったのでしょうか?

幼少より商売に慣れ親しむ

渋沢栄一は江戸時代末期の1840年(天保11年)、現在の埼玉県深谷市に生まれました。家は裕福な農家で、畑作や養蚕のほか、藍の染料の製造・販売などを経営。本人も藍の仕入れ調達に携わるなど、幼い頃よりこれらの家業を手伝っていたことが、後の功績の下地を作ったと言われています。

そのかたわら、父からは学問の手ほどきも受け、7歳になると私塾を開いていた従兄弟の元で「論語」を学ぶなど、勉学にも大いに励みました。青年期に入ると、尊王攘夷の思想に深く傾倒。23歳の時には実際に、仲間と共に倒幕活動を計画するも、周囲の説得によりこれを断念しています。

農民から幕臣、官僚から実業家へ

しかしその1年後の1864年(元治元年)、倒幕活動の嫌疑を避けるために向かった京都で転機が訪れます。なんと一橋家の重臣であり開国派でもあった平岡円四郎に見出され、後の徳川幕府第15代将軍、一橋慶喜に仕官することとなったのです。これまでの倒幕思想から一転、幕府に仕えるという決断が、彼の運命を大きく変えていきます。

慶喜が将軍となった翌年の1867年(慶応3年)には、パリ万国博覧会へ使節団の一員として出席するためフランスへ行く機会を得ます。そこでヨーロッパ各国を視察して回り、近代的な産業や経済の在り方に触れたことで、大きな感銘を受けました。そして大政奉還が成立した翌年、日本へ帰国。その後、明治新政府の依頼による大蔵省での仕官を経て、実業家として活躍することになりますが、この時に得た知識がその後の偉業へとつながっていくのです。

渋沢栄一が今注目を集める理由とは?

それでは渋沢栄一という人物が、今これだけ多くの注目を集めているのには、どのような理由があるのでしょうか? それには彼が実践した経営哲学に手がかりがありそうです。

利益と道徳の両立を提唱

渋沢栄一の功績の根幹にあったのは、幼少の頃より学んだ論語の精神でした。1916年に刊行された著書『論語と算盤』の中で彼は、利益の追求と道徳は必ず両立されなければならないという「道徳経済合一説」を提唱しています。

私利私欲のためだけに利益を追求しても、社会全体が豊かにならなければ、結局は個人も豊かにはなれない。そのため利益は独占してはならず、できるだけ多くの人に還元されなければならないという考え方です。

公益を第一とした経営方針

渋沢栄一が第一に考えていたのは、公益の追求でした。これだけの功績を上げながら、財閥を作らなかったのもこの考え方が背景にあります。

少数の身内で資金や経営を固めるのではなく、出自や立場に関係なく多くの人が能力を生かして企業を作り、その事業で得た利益を広く分配する。「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一ですが、本人はこうした自身の理念を「合本主義」と表現しました。

そのため実際に、設立に関わった多くの企業においても、自らがすべての経営の主導権を握ろうとは決してしませんでした。信頼できる有能な人材を集めて巧みに配置することで、多くの企業を成功に導いたのです。

今だからこそ渋沢栄一に注目を!

こうした渋沢栄一の経営思想は、CSR(企業の社会的責任)やSDGs(持続可能な開発目標)が重要視される今だからこそ、見直されるべき考え方と言えるでしょう。

社会全体のための利益を思い描いた人物、渋沢栄一。皆さまもぜひ、そんな彼の考え方や生き方に触れてみてはいかがでしょうか。