長野県の最南端、天竜川の支流・遠山川に沿って広がる地域「遠山郷」。かつては秋葉街道の宿場街として栄えていましたが、今では「信州三大秘境」や「日本の秘境100選」に数えられる、山深い谷間の山里となっています。

遠山郷

そんな秘境と呼ばれる地域に、2019年7月「遠山郷ゲストハウス太陽堂」がオープンしました。空き家になっていた雑貨店をリノベーションして作られた、小さなゲストハウスです。

屋久島のゲストハウスがきっかけで

「土間の店舗スペースと店主の生活スペースだった1階は、ゲスト同士が交流できるシェアスペースとしてリノベーションしました。土間はそのままに、トイレや洗面所を増設。食事は提供しないので、ゲストが調理できるようにシェアキッチンも作りました。生活スペースは畳部屋として残しています。2階には、もとの間取りを活かした客室が4部屋あります」

そう話してくれるのは、オーナーの水戸幸恵さん。憧れのゲストハウスを開業するために、東京でのサラリーマン生活をやめて、この地にゲストハウスをオープンしました。きっかけとなったのは、自身が足繁く通った屋久島のゲストハウスでした。

「20年ほど前、屋久島のゲストハウスに初めて泊まったのですが、そこでの体験がとても刺激的で、以来16年間100泊以上も通い続けてしまいました(笑)。最初はただ楽しいだけだったのですが、訪れていくうちに『自分でもやりたい』という思いが芽生えてきたんです」

そこで40歳を前に、意を決して退社。ゲストハウス開業へと一歩を踏み出したのです。

「仕事も楽しかったし、仲間にも恵まれていたのですが、一度退路を断ってチャレンジしてみようと思ったんです。でも仕事をやめてから1年くらいは、開業場所も決まらないし、体調も崩してしまって『本当にこれでよかったんだろうか……』と後悔したこともありました」

そんなとき友人から「遠山郷でゲストハウスをやってくれる人を探しているんだけど、興味ある?」と声がかかりました。総務省が推進する「地域おこし協力隊」を利用して、ゲストハウスの開業を進めていた女性からのバトンタッチで、開業してもらえないかということでした。

もともと水戸さんには、ゲストハウスを開業するに当たっての条件がありました。山が好きなので山が近いこと。食事を提供しない小規模な経営を考えていたので、近所にはスーパーや飲食店、公衆浴場があることでした。

「そういう条件にあう地域を探してみると、すでに観光地として開拓されているところばかりなんです。でも遠山郷は、この条件にぴったりでした。しかも、物件のサイズ感もイメージ通りだったんです」

そんな太陽堂の立地は、道の駅や温泉施設などのメイン施設がある新国道沿いではなく、遠山川を挟んだ旧国道沿い。決して目立つ場所にはありません。そこで水戸さんが考えた太陽堂のコンセプトは『遠山郷の勝手口』でした。観光客は新国道から遠山郷へやってくるのでこちらが「表玄関」。対する旧国道は真裏にあるので「勝手口」というわけです。

「もともと人々の生活があったのは旧国道側。江戸時代から続く文化があるので、地域の暮らしに触れたいなら、こちらのほうがおもしろいと思います。だからお客さんを迎える新国道側が表玄関なら、こっちはご近所さんが出入りする勝手口、というわけなんです」

開業後は地域の人々が自由に出入りし、外から遊びに来たゲストが地域の人々と交流を楽しめる、コンセプト通りの施設になりました。

「今では1階の交流スペースは、ゲスト同士の交流だけでなく、ゲストと地域の人、地域の人同士の交流の場にもなっています。近所の子どもたちは畳の部屋に上がって遊んでいますし、子どもを預けていく人もいます。移り住んで3年が経ちましたが、今では近所の人が悩み相談に来てくれたりもします(笑)」

交流スペースはゲストや地域の人の交流の場にも

地域の人との「近さ」が安心に暮らせる理由

地域の人々との信頼関係も深まっていった水戸さんですが、東京とはまったく違う環境に移り住んだことで、初めは戸惑ったこともあったのではないでしょうか?

「秘境といわれていますが、遠山郷のなかだけでもお店はたくさんあるので、とくに不便はありません。雨が続いたりすると、道が崩れて通れなくなることはありますが(笑)。地域の人とのトラブルも一切なく過ごせています。この地域のことをよく知る友人の紹介でこの地に来たので、地元の人も受け入れやすかったのだと思います」

移住して困ったことはなかったけれど、よかったことはたくさんあると、水戸さんは話してくれました。

「まず環境です。空気がきれいで水がおいしいという、基本的なことが満たされています。長年悩まされていたアトピーの症状も、移住からわずか3カ月で改善したんです。やっぱり、空気や水といった環境は大事なんですね。関東でしか暮らしたことがなかったので『自然のなかにいるだけでこんなに調子がいいんだ!』って、実感しています」

地域の人はほとんどが知り合いだという「人の近さ」も、水戸さんにとってはよかったといいます。

「遠山郷には2つの自治区があって、私の住んでいるところは1,400人ほどが暮らしています。全員ではないですが、ほとんどの人が顔見知り。ですから大雨とか災害が起きても、まわりがみんな知り合いだから安心です。自然災害は多い地域ですけれど、東京にいたときよりも不安感はないですね」

地域の子どもたちとも知り合いになるから、自分には子どもがいなくても、子育てに参加している感じを味わうことができるのも楽しいと水戸さん。

「東京にいたときは、同世代で同じ生活スタイルの人としか関わりがなかったけれど、ここでは子どもからお年寄りまで、全員と付き合いがあります。東京より人の数は少ないのに、多様性があるのは不思議ですよね」

お金、改修……もちろん苦労も

東京から移住してゲストハウスを開業し、すでに地域の人間として遠山郷になじんでいる水戸さんですが、このようなゲストハウスを完成させるまでに、どのくらいの資金が必要だったのでしょう?

「リノベーションのお金は全部で800万円くらい。エアコンなどの設備を含めたら1,000万円ほどかかっています。ただ、地域おこし協力隊への補助金もいくらかあるので、実際にはもう少し少ない予算で収まっています」

しかしこの地域では、1,000万円もあれば新しく家を建てられるといいます。それでもリノベーションにこだわったのにはわけがあるのだとか。

「新しいものにもいいものはありますが、歴史あるもの、時間を経ているものには価値があると思っているんです。それに、もともとあったものは地域の人にもなじみがあるので、それを生かしながら新しいものへと生まれ変わらせたかったんです。ですから『太陽堂』という名前も、リノベーション前の雑貨店の名をそのまま使っているんですよ」

そのおかげで、地域の人たちには名前ではなく「太陽堂さん」と呼ばれ、親しまれているそうです。

ゲストハウス開業までには資金面ばかりでなく、さまざまな苦労もあったといいます。

「いちばん苦戦したのが大工さん探しです。リノベーションを請け負ってくれる大工さんがなかなか見つからず、探すまでに半年ほどかかってしまいました。大工さんが決まって動き始めてからは、半年ほどで完成しました」

しかし、若い人たちが空き家物件を探して開業しようとする場合、いちばん苦労するのは物件探しだと水戸さんはいいます。

「私の場合、すでにゲストハウスを開業することと物件は決まっていたので、改修からスタートすればよかったのですが、そうでない場合は、物件探しが大変になると思います。このあたりで若い人たちが新しいことやりたいという話が出たりしますが、希望通りの物件はなかなか見つからないようです」

水戸さん自身も太陽堂に出会うまでの1年間は、物件探しに苦労していたそうです。

「空き家バンクを見て、気になった物件があれば見に行ったりしました。でも、空き家バンクは情報が更新されていないことが多くて、物件を見に行ったらもうなかったなんてことがたくさんありました」

「いい物件を見つけたいと思ったら、まずは開業したいと思う地域に入り込んでみること」と水戸さん。そうでないと、魅力的な物件に出会えないといいます。

「その地域に縁もゆかりもないと、地域の人も構えちゃうと思うんです。だから、真剣に活動したいと思う人は、興味のある地域にネットワークを作ることからスタートするのが、いちばんの近道だと思います。もし遠山郷に興味がある人がいたら、私に言ってくださいね!(笑)」

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